※以下、令和6年3月1日に中央市民病院講堂で開催された病院長挨拶を書き記したものです。

 本日、令和6年3月1日は、当院が開設されてちょうど100年の節目に当たります。私は16代目の院長として、皆さんと共にこの日をお祝いできることを大変感謝し、光栄に思います。

 当院は、大正13年3月1日に神戸市長田区三番町で神戸市立神戸診療所として開設されました。歴史を振り返ると、当時の神戸は急速に発展する町でありました。もともと人口2万人の寒村でしたが、港湾や工場が誘致され、瞬く間に70万人を超える大都市になりました。東京、大阪に次ぐ日本第3位の都市でありました。大発展を遂げる過程で、多くが短期間に集まってきたため、深刻な公衆衛生上の問題を抱えていました。すなわち、急性感染症を中心としたさまざまな病気が流行する地域であったのです。そのため、公的な医療施設の設置は喫緊の課題となっていました。

 「70万人の市民をして市民病院なし」と、その当時に言われた言葉が記録されています。そのような事情下で長田区三番町に市が建設した診療所が当院の始まりです。当時のお金にして25万円の起債をしたと書いてあります。大正時代の1円は現在の4,000円程であったので、その起債額は10億円以上であったと想像できます。

 開設された神戸診療所は103人の職員が配置され、1日に500人から900人の患者を診療したとあります。当初から非常に忙しい医療活動があり、当時の職員の献身的な活動は市民の信頼を得て、それからの100年が築かれたと想像できます。「市民のための最後の砦」という当院のスピリッツは、100年を超えて私たちに受け継がれるものになったということです。

 さて、その後100年の歴史は平々たるものではありませんでした。昭和13年には神戸市を襲った大水害がありました。昭和20年終戦直前には2回にわたって大空襲があり神戸市の街や病院も焼け野原になりました。それに続き、戦後復興の力を集めて、昭和28年に現在の新神戸駅前、布引地区に移転を行いました。これが神戸市立中央市民病院の第一歩であります。その建設は昭和32年に完成し、総合病院としての姿が現れました。それとともに医療センター構想が展開され、慢性疾患や難病に対しても、充実した診療が行われるようになりました。昭和42年頃からは、問題であった救急医療に対して、全国に先駆けた診療体制整備が行われました。それらの結果、昭和56年には新興地であったポートアイランドへ移転し、高度急性期医療に対する体制を更に拡充しました。平成7年には阪神淡路大震災を経験しました。そして、平成23年には第二期の現在の地への移転を果たしております。最近では、地方独立行政法人化、令和2年からの新型コロナウイルス感染症パンデミックなどを私たちは身近に経験してきました。

 このように100年の歴史を振り返ってみますと、この病院に平穏な時間は少なかったことがわかります。日々、新たな課題に直面しそれらを解決すべく、私たちの先人は議論を行い、試行錯誤を重ね、その結果としてさまざまな体制を獲得してきたことで、私たちの現在があることを強く感じます。今日の成り立ちを理解し、先人たちの努力を噛みしめたいと存じます。それは医療関係者だけではありません。とりわけ行政担当者が柔軟な助言をし、時には大胆な決断を以って私たちを支えたことを思わざるを得ません。また、診療所開設の時代から私たちを応援し、深い信頼を寄せていただいた神戸市民のおかげにより、今日の私たちがあるということであります。

 100周年の日に立ち、私たちは過去を振り返って感謝の気持ちを表すとともに、次の100年に向けて歩む重い責任を自覚しております。ここにお集まりの皆様の鋭意と努力によって当院の未来がしかと定まり、次の200年が形作られていくことを確信し、私の挨拶といたします。

木 原 康 樹